人の嫌なところばかり目がつく私。裁きと赦しの関係性
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間は不完全ですから
こうなりたいと思っても
なかなかその姿になることはできません。

清く正しく生きていきたいと思っても
そうカンタンには昔の習慣から抜けることはできません。

スピリチュアルや精神世界
何でもそうですが、勉強していけばいくほど
生きるための知識が付いてきます。

例えば、
すべてを赦しなさい。とか
すべてを受け入れなさい。とか
肯定的に生きなさい。とか
人を裁いてはいけない。とか

僕は勉強が好きなので
頭でっかちになり気味です。

行動が伴わないタイプかも知れません。

で、スピリチュアルをしていた頃も
分かった気になるんですよね。

スピリチュアルマウンティングです。

良くしてしまっていたことは

①知識のマウンティング

②能力のマウンティング

③善悪のマウンティング

スピリチュアルや精神世界を勉強する人は
清くなり人の役に立ちたいと思っているのが本質ですが
無意識にエゴが露出するのですね。

本性です。笑

①知識のマウンティング

「俺はこれだけ自己投資して勉強してきたんだぞ!」

「こんなけ勉強してきたから、大抵のことはわかるんだぞ!」

まあまあ多いと思います。笑

謙虚さとは程遠く一般人を見下すのですね。

②能力のマインティング

スピ業界には
たくさんの技術や能力があります。

ヒーリングとかレイキとかエネルギーワークとか。

「俺の方がたくさんの病気治してきた!」

「こっちの能力の方が唯一無二」

誇りとしては大切なのでしょうが
人を勝るために能力を付けるのではないですよね。

③善悪のマウンティング

人間は自分が正しいと思いたい生き物ですよね。

知識が付けば付くだけ
ドンドンと頭でっかちになっていきます。

知識が付くと
何が善で何が悪かが見えるようになります。

(その善悪の基準がどこかによって変わるけど)

僕もずっとやってしまうんですが
その知識によって人を裁くんですよね。

「それ間違ってる!」

「いやいや、違うから!」

と言った具合に。笑

で、自分はどうなのか?というと
大してできていないワケです。

人を裁いてしまう自分がどうしても存在してしまう。

本当はすべてを受け入れ赦して生きていきたいのに。

なかなか自分が人を裁いていることにも気づかないのですが。。。

どうすれば
人を裁かないようにできるのでしょうか?

善悪の判断基準

スピリチュアルや精神世界にどっぷりハマっていた時に
本やセミナーで学んだことは

「善も悪もない」

という善悪統合の考え方でした。

例えば

日本ではダメなことでも
海外に行けばOKだよね?

だから、それって
小さい枠組みで善悪を決めているんじゃん。

「な、なるほど!」

「確かに!」

もちろん、人間的な倫理観と健全な良心を持っていたら
「何でもOK」にはならないのですが
スピリチュアルや精神世界にどっぷりハマっていくと
善悪の判断基準がドンドン曖昧になっていきます。

高次元的に見たらそうなんでしょうけど。

何が善で何が悪かを明確に理解していないと
確信を持った判断ができなくなります。

今、ニュースになっている
アンジャッシュ 渡部さんの不倫ですが、
しっかりとした判断基準が自分の中に無いから
「ま、いっか!」という選択をしてしまうのだと思います。

人間として未熟な僕たちは
何かの基準を持って生きていくことが大切ですね。

僕はスピリチュアルや精神世界に
どっぷりハマっていったら善悪のモラルがめちゃ低下して、
自己正当化しまくっていました。

本当にごめんなさい。

そこから、自分の軸を自分の心や想うことではなく
聖書に照らし合わせるようにしました。

キリスト教でもクリスチャンでもないですが
人生の指南書として聖書を使っていこうと。

そして、本当にそれを実践して生きていけば
どうなるのかも自分で体験したいし。という思いです。

自分の心を信じて!って努力しながらやってきましたが
日によって気分によって変わるし
僕は弱いのですぐに自己正当化してしまうんですよね。

自分を信じるということって
まあまあ脆いんだな。って思いました。

裁いてはいけない、裁かれないために

聖書でこのような聖句があります。

“さばいてはいけません。さ

ばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。”マタイの福音書 7章 1〜5節

心理学の考えでは外の世界は自分の写し鏡といいます。

自分の内側に無いものは外の世界で見ることはできません。

また、外の世界の反応は
自分の内側にあるものを気づかせてくれることでもあります。

人間は裁く通りに裁かれます。

人のことばかり
気になる人は聖書で出てくるパリサイ人のようです。

聖書を知っていくと世界の歴史が分かってきます。

本当に面白い。

ユダヤ教の中にパリサイ派という宗派があります。

この人達はカンタンに言うと

「律法を守ることで救われる」

という考えです。

旧約聖書では
モーセが神から十戒を授かります。

それを当時の
イスラエル人(ユダヤ人)と神との契約としました。

十戒

1. わたしのほかに神があってはならない。
2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4. あなたの父母を敬え。
5. 殺してはならない。
6. 姦淫してはならない。
7. 盗んではならない。
8. 隣人に関して偽証してはならない。
9. 隣人の妻を欲してはならない。
10. 隣人の財産を欲してはならない。

これらを守ることこそ
神の道へと還る手段だと説きます。

これを別名 律法主義と言います。

しかし、聖書の中では
このパリサイ人は、律法で人を裁くのです。

自分たちは罪を犯しているのに
それを棚に上げて、律法に反した人を見つけては処刑をしていたのです。

このパリサイ人の心の奥にある思いは何か?

それは”選民思想”です。

旧約聖書では
神はイスラエル民族を契約の民としました。

旧約聖書は
イスラエル民族(ユダヤ人)の歴史書です。

言えば、

「ユダヤ人は神から選ばれた民族だ!」

「他の人種とは違うんだ!」

という選民思想があります。

これはどこか
今のスピリチュアル業界によく似ています。

スピリチュアルの能力は誰もが持っていて
誰もがカンタンに使えるのですが
昔の僕はそうとは思っていませんでした。

エネルギーでご飯の味を変えたり
病気が治ったりすることに驚きました。

「人の役に立てる!」と思いと同時に

「俺ってすごい!」

「神から選ばれてる!」という思いが湧いてくるんですよね。

人を裁いたり、ジャッジしたりする真意は
自分の中に選民思想があり、人を見下している状態です。

自信を持つことは大切ですが
それが驕りになれば、必ず足元をすくわれます。

アンジャッシュの渡部さんや
「死ぬこと以外かすり傷」の人
これはサタンの道ですね。

一見、現実的には良いところまで持ち上げられても
最後は、足元をすくわれ破滅させられます。

そこには「自分は特別だ!」という選民思想があるのでしょう。

今のあなたがあるのは誰かの赦しの上

互いに忍び合い、 だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。コロサイ 3:13

赦すこととは人生の大きなテーマでしょう。

知識や能力で人は裁きたくなります。

しかし、そこには大きな赦しが必要なのです。

僕たちは、誰かの犠牲の上に生きています。

今日の僕がこうやっていられるのも
誰かが僕を赦してくれたからです。

でも、そんなことは忘れて
自分で大きくなった気になって
自分は何でも一人でできると高ぶっているんですね。

本当に今の自分が自分のままでいられるのは
誰かが犠牲になってくれているのだと思います。

意識する、しないに関わらず
必ず僕たちは赦されています。

自分は多く赦してもらっているのに
なぜ、僕は他人を裁いているのでしょうか?

赦しの上に今の自分があるのに
なぜ、自分は人を裁いているのでしょうか。

驕り、高ぶることは何もありませんね。

へりくだり謙虚に愛を持って裁かず赦すこと。

これが大人ですね

まとめ

聖書を読めば読むほど
「渋っっっっっっ!」って言葉が出てきます。

”あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」”マタイの福音書 20章 26〜28節

リーダーになりたいなら
へりくだって、しもべになれと言います。

努力して力を付けて
責任感を持って、誇れる人間になれ!と
地上世界では言われますが
聖書ではしもべになれと言います。

めちゃくちゃ渋くないですか?

聖書は世の中と真逆なんですよね。

本当に渋い!笑

“ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。”ペテロの手紙 第一 5章6節

へりくだっていないさい。
神さまが高く上げてくださるから。

めちゃ渋くないですか?

自分で頑張ろうとするのではなく
努力で高みに登ろうとするのではなく
へりくだり謙虚でいてなさい。

「いやいや、努力してまうよ〜」
って感じですよね。

聖書を読んでいると
究極の信頼が試されている感じです。

聖書、激渋!!!w