【永久保存版】神さまがあなたに与えた命令とは?
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さまという言葉を聞いたら
どんなイメージをするだろう?

愛が溢れる
光のような存在か。

それとも
厳しくて罰を与える存在か。

それとも
遠くにいて
触れ合うこともできない偉大な存在か。

それとも
近くにいて
常に交わりをもっている存在か。

人間は愛を求めて生きる。

生まれたての赤ちゃんに
母親の愛を注がなければ衰弱してしまう。

僕たちは、
お金や食べ物で生きているのではなく
愛によって生きている。

世の中には
たくさんの神さま話がある。

たくさんの宗教がある。

宗教に良いイメージはないし
ちょっと怖い感じがする。

しかし、僕たち人間の本質は
神の愛を求め、神の交わりを求めて生きている。

あなたが

お金が欲しいのも
富が欲しいのも
有名になりたいのも
恋人が欲しいのも
人からよく思われたいのも

掘り上げれば神の愛を渇望の結果である。

真理を探究して
ありとあらゆることをしてきた。

そして、辿り着いたのは聖書で
聖書は素晴らしい書物だと思う。

しかし、日本に聖書は浸透しないし
神さまという概念もなかなか浸透しない。

その理由は
まさに、人間の誤解釈にある。

聖書自体は
素晴らしいものだと思う。

神さまは存在していて
人間は神さまの愛を求めているのも確か。

しかし、人間の誤解釈によって
世の中は混乱している。

この記事で
あなたが抱く神さまのイメージを考え直して欲しい。

神さま話や宗教や
スピリチュアルや宇宙や
色んな情報が錯綜していて
ここまで混乱している理由は
人間の誤解釈に他ならない。

神さまからの命令

聖書には神さまの言葉が書かれている。

“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”
テモテへの手紙 第二 3章16節

聖書は神さまによって
書かれた唯一の書物である。

聖書 作者:神さま

「え、そんなん証明できひんやん。」

確かに100%を証明することはできない。

結局は、信じるか信じないかみたいなところになるし
そもそも議論するつもりもない。

しかし、聖書は世界で一番初めに書かれた書物で
科学的根拠がたくさんあって
2000年もの間、受け継がれている書物である。

人口の半数以上の人は読んでいる本である以上
どの書物よりも信じるに値するということになる。

聖書を疑うなら
どの本も読むことができない。

しかし、原文は
ヘブライ語とギリシャ語であり
それを日本語に訳している時点で
純度100%の内容を受け取ることが困難なのも確か。

また、人それぞれの解釈によって
変わってしまう。

しかし、それは受け取り手の問題であって
聖書が否定される理由にはならない。

このスタンスで話を進めていく。

聖書は
あなたに送られた神さまからのラブレターである。

いわゆる、
「こう生きたら人生良くなるよ」というものだ。

たくさんのことが書かれているが

要約すると
「神はあなたを愛しているから、この愛を無条件に受け取ってくれ」というものだ。

その中で、
あなたに対する様々な命令が書かれている。

“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”
テモテへの手紙 第二 4章2節

聖書を読んだ人は分かると思うが
あなたが受けた恵みを人々に伝えなさい。
というものだ。

“しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。”
マタイの福音書 5章44節

恨むのではなく、裁くのでもなく
自分を迫害する者のために祈りなさい。
というものだ。

“詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。”
エペソ人への手紙 5章19節

神さまに感謝し
霊と誠を持って心から歌いなさい。
というものだ。

このように、聖書には神さまからの
さまざまな命令が書かれている。

命令とは何か?

あなたは「命令」と聞くと
どのような印象を受けるだろう?

「〜しなさい」というのは
まさに命令である。

子どもの頃を思い出して欲しい。

ぐっすりと眠っている時に
「あんた起きや!」
母親の怒鳴り声が鳴り響く。

また、
「人に会ったら、挨拶しなさい!」
と言われる。

また、
「早く宿題を終わらせなさい!」
と言われる。

これも、命令である。

さて、少し考えてみて欲しい。

この「命令」というものを
守らなければどのようなことが起きるだろう。

「命令」を守らなければ?

母親の「命令」を守らなければ?
父親の「命令」を守らなければ?
上司の「命令」を守らなければ?
社長の「命令」を守らなければ?

「命令」を守らなければ?
の後に来る言葉何だろう?

「命令を守らなければ○○○○○。」

それは、
罰が下るとか
怒られるとか
受け入れられないとか
ではないだろうか?

多かれ少なかれ人間である僕たちは
このような価値観を持っている。

この人間の価値観を
しっかりと覚えていて欲しい。

「命令を守らなければ良くない」
「命令を守らなければ叱られる」
「命令を守らなければ罰せられる」

というのが人間の価値観である。

これこそ、人間が神さまを歪めている
真の原因なのである。

命令を”守らなければ”

聖書には神さまからの
命令が書かれていると言った。

“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”
テモテへの手紙 第二 4章2節

“しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。”
マタイの福音書 5章44節

“詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。”
エペソ人への手紙 5章19節

これは、まさしく命令である。

では、この命令を
守らなければどうなるだろう?

この神さまからの命令を無視すれば
神さまはあなたのことをどう思うだろう?

こらを人間の価値観で考えれば

「神さまの命令を守らなければ罰せられる」
「神さまの命令を守らなければ怒られる」
「神さまの命令を守らなければガッカリされる」

要するに、神さまの命令を守らなければ

「ダメな自分」であり
「良いことをしていない自分」であり
「愛されるに値しない自分」である

ということになる。

「神さまの命令を守ることができない自分はダメだ。」
「神さまの命令を守ることができない自分は愛されるべきではない。」
「神さまの命令を守るできない自分は受け入れられない。」

という思い込みをしてしまう。

するとどうなるだろう?

この思い込みを抱くと
人間は次のような行動にでる。

「罰せられないために命令を守ろう。」
「怒られないために命令を守ろう。」
「ダメな自分にならないため命令を守ろう。」
「愛されるために命令を守ろう。」

「受け入れてもらうために命令を守ろう。」

いわゆる
「△△されないために○○しよう」という

恐怖モチベーションで神さまの命令を守るようになる。

その恐怖モチベーションの行動が
突然、街中で宗教勧誘をしたり
求めていないのに神さまの話をしたり
相手のことを考えずにキリスト教を勧めたりする。

これが、
世の中で起こっていることだ。

その人のことを思って伝えているのではなく
自分が罰せられないために伝えているのだ。

これこそ、
神さまを人々から遠ざけている理由であり
宗教や目に見えないものが受け入れられない理由だ。

じゃあ、そもそも何が間違っているのか?

それは、人間の勝手な思い込みによって創り出された
間違った神さま像なのである。

その神さま像とは何か?

それは、

「神さまは僕たちに罰を与える。」
「神さまは人間を裁く。」
「神さまは怖い。」
「神さまの命令を守らなければ地獄に落ちる。」

と言った

裁きの神さまを創り出すのである。

これは、本当に残念で仕方がない。

神さまの命令の意図とは?

人間の価値観で
神さまを図ってはいけない。

これこそ、人間の大きな過ちである。

神さまは
なぜ、僕たちに命令をしているのか?

ここが大切である。

それは、
命令を守らないなら罰を与えるからではなく
命令を守らなければ地獄に落とすからではなく
神の怒りを命令を守らない者に下したいのでもなく

命令を行うともっともっと幸せになるよ。
神さまの言うことを守るともっともっと人生が豊かになるよ。

というすヽめなのである。

これはすヽめであって
あなたを縛り付けるための義務でもない。

例えると、
身長を伸ばしたかったらよく寝なさい。というものだ。

よく寝なければ罰するとか
よく寝なければ愛さないというものではない。

ただただ愛しているが故の提案が
聖書に書かれている命令なのである。

「命令を守らなければ罰を与える」
「命令を守らなければ愛さない」

という価値観になると裁きの神さまが出来上がる。

罰を下し、言うことを聞かない人間には
容赦しないという神さまである。

命令を守らない者は地獄に落としてやろうという
怒りの神さまである。

これは人間の価値観を神さまに当てはめている
人間の大きな過ちである。

しかし、命令を出す理由が
こうしたらもっともっと幸せになるよ。
これをするともっともっと人生が豊かになるよ。
あなたが幸せになって欲しいから幸せになれる指針を与えるね。
義務じゃないし、幸せになりたいならやってね。

やらなくても、あなたへの愛は変わらないから。

という価値観になると
愛に溢れる神さまが浮かび上がる。

何が言いたいか?

人間がどの価値観で見るかで
神さまが大きく変わるということである。

人間の価値観でみれば
(命令を守らなければ罰を下す)
罰を与える裁きの神さま

天の価値観でみれば
(命令を守ればより愛を受け取ることができる)
人間を豊かにしたい愛の神さま

あなたはどちらを信じているだろうか?

もし、
「〜しなければいけない」
「〜すべき」という思いで生きてるなら
罰を与える裁きの神さまを信じていることになる。

もう少し詳しく見ていこう。

神さまの命令は守らなければいけないのではなく、
このようにすれば幸せになるよ。というすヽめである。

それは義務でも強制でもない
幸せになりたい、さらに豊かになりたい人だけがやればいい。

身長を伸ばしたい人はよく寝ればいいし
もっと人に喜んでもらいたいなら、愛を与えればいい。

しかし、よく寝なくても
愛を与えなくても罰も怒りも何もない。

それは、任意であり
あなたがやりたければやればいい。

なぜなら、
その報いを受けるのは自分だから。

神さまはその命令を守る人だけを愛して
命令を守らない人を愛さないという存在ではない。

その命令を行う者だけを特別に愛して
命令を行わない者を罰する。

そんな、愛は
神さまの愛ではなく人間の愛である。

人間の愛と神さまの愛を同じと考えてはいけない。

神さまは
すべての人を平等に愛している。

良い行いをする人
悪い行いをする人
素直な人
素直じゃない人

行いは関係なく、すべての人に同じ愛を注いでいる

世の中には
「この人は神さまから愛されている人だな〜」
「この人は神さまから見放されているな〜」
という相反するパターンを見ることがある。

それは神さまの側に問題があるのではなくて
受け取る側の人間に問題があるだけの話である。

神さまは与えている量は同じで
人間の受け取る量が違うだけの話である。

“私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”
ヨハネの手紙 第一 4章19節

神がすべての人を平等に愛している。

なぜ命令を守ると幸せになるのか?

神はすべての人を平等に愛している。

これだけは忘れないで欲しい。

その愛しているとは
人間の愛とは全く違う。

人間は、目に見える「うわべ」を愛するが
神さまは、あなたの存在を愛している。

神さまの愛は
行いがどのようなものであっても
あなたへの愛は変わらない。

では、命令は何のためにあるのか?

それは命令を守り行う人は
さらに神に愛してもらえるのではなく
さらに神の愛を知っていくためである。

ここがとても重要。

もう一度言う。

命令を行うものへ
特別に神さまからたくさんの愛を神与えられるのではなく

命令を行うことで
与えられている愛から何度も違う愛が受け取れるのである。

多く受け取れるというよりかは
たくさんの神の愛の側面を知ることができるということだ。

僕たちは
行為によって愛される世界で生きてきた。

良い点数を取ったら褒められる
努力して実績を残したら認められる
富を得たら賞賛される

何かをすればするだけ
愛が増し加わっていると錯覚する世界に生きている

これが
「うわべ」を愛する人間の価値観である。

しかし、神の価値観はそうではない。

何をしても愛は平等である。

“もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。”ローマ人への手紙 11章6節

行いによっては
神から与えられる愛は変わらない。

しかし、命令を守ることによって
神の愛を知ることができる。

要するに与えられた分の中から
余計に受け取ることができるのである。

なぜ、余計に愛を知ることができるのか?

例えば

“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”
テモテへの手紙 第二 4章2節

なぜ、この命令をしたのか?

御言葉を伝えるとは
神の言葉を伝えていくことである。

神の御言葉とは「人を批判しろ!」ではなく
「人を愛し合いなさい」というものである。

それを伝えていくと
受け入れられない現実に直面する。

変人扱いされる現実に直面する。

そして、その「愛せよ!」を実行しても
愛することができない自分に直面する。

その時に、
自分自身の愛のなさに気がつく。

自分の無力さに気がつく。

自分ではどうすることもできない時に
助けを必要とする。

それを助けてくれるのが神さまである。

“しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。

というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。”

コリント人への手紙 第二 12章9節

神が働かれるのは
自分自身ではどうすることもできない現実に直面した時である。

そんな時に、
「神により頼みなさい。」
「助けてあげるから。」
と言っているのだ。

“心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。”
箴言 3章5節

「命令を守れ!」と強制しているのではなく
命令を行うことによって
命令を行えない自分にぶち当たる。

弱い自分に直面した時
自分ではどうしようもできない時に
神を求めなさい。

そうすれば助けるから。
より頼みさえすれば必ず助けるから。

“主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」”
ヘブル人への手紙 13章5節

その時に奇跡的な神の助けが入り
そこに神の愛を感じる。というものなのだ。

次のパターンを見てみよう。

“しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。”
マタイの福音書 5章44節

人間の価値観では
攻撃してくる者には仕返しをする。

しかし、天の価値観は
その人のために祈りなさいというのだ。

命令を守ろうとすれば
その人のために祈ろうとする。

しかし、祈ろうとすればするほど
怒り、苛立ち、恨みといった感情により
その人のために祈れない自分に直面する。

自分自身には愛がないのだと思い知らされる。

口では人を愛してると言いながら
実際には人のことを愛せない自分に直面する。

その絶望の中で神の力が働く。

自分ではどうすることもできないから
神の助けを求める。

その神の力によって
人を愛せるように心を変えてもらえる。

そこに神の愛を感じる。

神の助けによって
与えられていた神の愛をさらに知ることができる。

これが神が与えたいものなのだ。

罰を与えたい
苦しめるために命令しているのではなく

神の愛を感じるために
命令をしているのである。

神の命令はなのだ。

神は愛である

“愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”
ヨハネの手紙 第一 4章8節

神は愛である。

愛とは何か?

“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”

コリント人への手紙 第一 13章4~7節

愛は怒らずと書かれている。

じゃあ、裁きの神が正しいのなら
神が愛であることは嘘になる。

神が愛でないはずはない。

間違っているのは人間の解釈である。

人間の失敗は
人間の価値観で聖書を解釈することである。

人間の価値観で
神さまを創り出すことである。

人間の価値観からすれば
命令に背くことは罰が与えられる。

すると出来上がる神さま像は
裁きの神さまであり、
罰を下す神さまである。

そのような神さまなのであれば
罰せられないために
救われるために
怒られないために
神の命令を守ろうとする。

そんな不純な動機で、神さまを語るから
日本では宗教も神さまも混乱しているのだ。

人々を神さまとの交わりから遠ざけているのだ。

間違っているのは、人間だ。

神の価値観では
神の愛は変わらない。

命令は守らなければ罰を下すために与えられているのではなく
命令を守ればもっと神の愛を知ることができるということを教える。

もっと幸せになってほしい
もっと愛を感じてほしい

そのために命令を与えている。

命令を行うことによって
より幸せで喜びが溢れる人生になるよ。

と教えている。

これは強制ではなくすヽめである。

そうすると浮かび上がる神さま像は
人間を祝福したい愛の神さまである。

神はいつも
僕たちに愛を感じて欲しいから
あらゆる出来事を起こしてくれる。

それは苦しみや悲しみを与えたいのではない。

出来事を苦しみや悲しみと捉えているのは人間の価値観である。

その出来事は
その中で神の愛を感じられるようにするためだ。

神の愛を知るキッカケを
与えてもらっているのである。

“光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”
ヨハネの福音書 1章5節

光は闇の中で輝いている。

要するに絶望の中でしか
光を見つけることができないのである。

人間の価値観では
絶望や苦しみを神の裁き、罰と捉える。

そうではない。

神の価値観では
絶望や苦しみとして捉えているものは
神の愛を知るためのギフトなのである。

神を知ることは
絶望の中にしか見いだせない。

現実世界は人間の価値観で
神さまを図ることにより混乱が起きている。

心の奥底で求める神への愛が
このような人間の価値観の誤解釈によって歪められているのである。

問題は神さまにあるのではなく
聖書にあるのではなく
間違った人間の価値観にあるのだ。

まとめ

人間は魂で
神さまとの交わりを求めている。

神さまと繋がらなければ
心の平安を感じることはできない。

お金、恋愛、仕事
名誉、実績、家族

このようなもので
心は満たせる気がしても
それは神の愛の代用に過ぎない。

それらが無くなれば
心の平安が無くなってしまう。

人間の間違った価値観が
変な宗教を創り出し
変な勧誘をして
人々の魂から神さまを遠ざけている。

人間の価値観で
神さまを見てはいけない。

“見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。”
ヨブ記 36章26節

天におられる父なる神よ。

わたしを通して
あなたが必要な言葉を語って下さったことを感謝します。

すべての栄光をあなたに返します。

あなただけが誉めたたえられますように。

そして、このメッセージを受け取った
一人一人に平安と祝福がありますように。