【クイズです!】自分が幸せになることが先か?人に与えることが先か?スバリ!正解はコチラです!
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ャンパンタワーの法則を知っていますか?

ホストクラブやパーティーでよくやる
ミラミッド型にグラスを積み上げるものです。

シャンパンタワーの法則は
自分自身が一番上に位置しており
自分に飲み物を注ぐのが一番初め。

その自分から溢れた分が
ドンドンと下へと流れていくのです。

自己啓発や成功法則で教えられる
シャンパンタワーは何を教えてくれるのか?

それは

「まずは自分が幸せになることだよ」

ということです。

とても理にかなっていて確からしく聞こえます。

しかし、多くの人は矛盾にぶち当たります。

それの矛盾とは
自己啓発や成功法則を学べば学ぶほど
ある言葉にブチ当たります。

その言葉とは

「先に与えましょう」というもの。

「まず自分が幸せになること」

「先に与えましょう」

一見矛盾する言葉ですが
この2つの言葉の真意は矛盾していません。

しかし、成功を目指す人々が聞くと
矛盾しているように聞こえてしまいます。

「先に自分が幸せになるんじゃないの?」

「人に与えることが先なの?」

「え、どっちなの〜」

この矛盾は
学びの深みにドンドンとハマってしまいます。

この記事では

自分が幸せになることが先なのか?

それとも人に与えるのが先なのか?

この答えを提示します。

学びすぎて、何がなんだかわからなくなっている人は
最後まで読んでくださいね。

幸せの定義が間違っている

単刀直入に結論からお話しますね。

「自分が幸せになることが先なのか?」

「それとも人に与えるのが先なのか?」

という質問をしてくる方が間違っていることが2つあります。

それは

①自分は”いま”幸せではないと勘違いしていること

②幸せとは何かをして達成するものを思っていること

多くの人がこの2つの勘違いをしています。

本当の答えはこうです。

①幸せとは”認知”であること

②幸せとは”行為”によってなるものではなく”気付く”こと

自分が幸せに”なる”ことが先ではなく
自分が既に幸せで”ある”ことに”気付く”ことが先です。

多くの人は
幸せとは”行為”によって到達できるもので
どこか程遠いところにあると勘違いしています。

そのため、多くの人は
どこにもない”幸せ探しのラットレース”へと
時間とお金を投資していきます。

「お金があれば幸せ」

「キレイな彼女を創れば幸せ」

「アイツよりも良い成績を残せば幸せ」

このような”世間”によって創られた
虚像の幸せを追い求めるラットレースが始まります。

これがセミナージプシーや
スピリチュアル難民が陥っている状況です。

幸せは”すぐそこにある”のに
虚像の幸せを求めて奔走しているのです。

幸せとは認知である

幸せとは”行為”によってなるものではなく
既に幸せで”ある”ことに”気付く”ことだと言いました。

人間は当たり前のことに鈍感です。

僕もずっと、この意味が理解できませんでした。

結局、自己啓発やスピリチュアル
成功法則で共通して言われることは

「感謝しましょう!」

「与えられていることを数えましょう!」

「人に与えましょう!」

というものです。

そんな話を聞いていて

「いやいや、言ってることはわかるけど…」

「お金が無かったら、生きていかれへんやん…」

こんなことをずっと思っていました。

当たり前のことに気付くのは
何かの体験を通してでしか不可能です。

僕は、小学校2年の時に交通事故に遭いました。

田舎で、姉と”かけっこ”をしている時
僕は道路向こうの壁がゴールだと思い
そのまま道路を渡ろうとしました。

すると。。。

「ドンッッ!!!!!!!!!」

小学校2年の小さな僕の体は宙へと舞い、
15メートル先の地面に叩きつけられました。

額からは赤い血がダラダラと流れ
呼吸はピタッ!と止まったまま意識がない状態でした。

姉曰く、宙に舞っている時に時間が止まり
「死んだ・・・」と思ったそうです。

手術の結果は
両肺が破れ、額を20針縫いました。

大怪我でしたが
命に別状はありませんでした。

奇跡ですね。

そして、回復が早く
2週間で退院することができあmした。

ここから僕は、生きていることに感謝するようになった!

訳ではありません。

たまたま運がよく生きていた、
としか思っていませんでした。

なんと無礼なんでしょうか。

最近になってようやく
その時に神様に救ってもらったんだと感じるようになりました。

それは、現世で成功を求め
お金を拝み、人よりも勝ろうと努力していた
情けない自分を見て感じました。

人は誰でもターニングポイントがあります。

両親の死

友人の死

大切な人との別れ

あらゆる経験で、神様が僕たちに伝えていることは
「当たり前のありがたみに気づけよ」というものです。

これのコロナの自粛も
ありがたみ、感謝に気付くためのイベントでしょう。

どうですか?

それでも、まだ虚像のラットレースを続けますか?

氣がつくだけで幸せが溢れ出す

人に与えるためには
自分が欠乏感MAXでは与えることができません。

事実、自分が苦しくて悲しくて
同しようもない時になかなか人に優しくできません。

ましてや、幸せとは”なるもの”であって
幸せとは”外の世界の状況で決まる”と思っている人は
いつまで経っても人に与えることはできません。

人に与えるとは
人生の”スタート”です。

先とか、後とかではなく
人に与えることが”スタート地点に立つ”ことなのです。

僕は長年、人生の”スタート地点”にも経てずに
自分が幸せになることばかりを目指していました。

本当に気付くだけでドンドンと幸せが溢れ出し、
人に与えたくなるのだなぁ〜と実感しています。

幸せに気付く具体的方法

どれだけ頭で理解できても
腹の底まで腑に落ちない限り
なかなか行動に移すことはできません。

僕が実際に
幸せに気付くために行った具体的方法を
ステップ・バイ・ステップで紹介します。

STEP1:与えられているものを数える

STEP2:与えられているものを自分で創造できるかを考える

STEP3:それが無くなったことを考える

STEP4:心から感謝し感謝の祈りを捧げる

STEP1:与えられているものを数える

僕たちは何を与えられているのでしょうか?

欠乏症候群の人は、無いものを数えることが得意です。

「お金がない」

「人脈がない」

「知識がない」

「能力がない」

ナイナイ病です。

しかし、僕たちは
生まれた時から素晴らしいものを与えられています。

目は、どのように創られたのでしょう?

この目がなければ
素晴らしい景色や朝日を眺めることができません。

耳は、どうでしょう?

耳が聞こえなければ
大好きな人の声や愛する子どもの声を聞くことができません。

肺はどうでしょう?

僕たち、人間がここまで環境を破壊し、汚い空気を創ったのにも関わらず
肺はいつも元気で、新鮮な呼吸をすることができます。

どうですか?

それでも、まだ貧しいでしょうか?

STEP2:与えられているものを自分で創造できるかを考える

当たり前過ぎて
そんなものに感謝なんてできないですよね?

では、それを自分で創造できますか?

人間が創造できるのは
高層ビルやいるかいらないかわからない偶像ぐらいです。

人間は種から花を咲かせることもできなければ
子どもを創ることもできません。

子どもを神から与えられるギフトです。

今の世の中は
その子どもの命を生むか殺すか選べてしまう世の中です。

主権はどこにあるのでしょうか?

STEP3:それが無くなったことを考える

明日、朝起きた時に目が見えなくなっていたらどうでしょう?

昨日が、これまでがどれだけ裕福かがわかるでしょう。

明日から、ずっと一緒にいた愛する人がいなくなったらどうでしょう?

どれだけ愛をもらい、生かされていたかわかるでしょう。

あるものになかなか感謝できないのが人間です。

それが人間の性質です。

しかし、それは本当に当たり前なのでしょうか?

それが無くなっても平気ですか?

だからこそ
当たり前のことに立ち返り
感謝をすることが大切なのです。

STEP4:心から感謝し感謝の祈りを捧げる

感謝とは、頭でできるものではありません。

無くなって初めて気付くものです。

しかし、無くなってからだと痛みや悲しみが伴います。

そうならないために
いま、与えられているものに心から感謝しましょう。

僕たち人間は
間違いなく、何かによって生かされている存在です。

与えられているものを数えられれば
あなたの心は満たされ、勝手に溢れ出すのです。

言っていることはわかるけど…

この氣づきを得て、心から感謝が湧き上がっている人は
健全な良心を持っている方です。

しかし、偽りの良心によって感度が鈍っていると

「言ってることはわかるけど…」

「それはただのキレイ事やろ」

「そんなこと言ってもお金が無かったら生きていかれへんで」

前の僕なら、こんな反論をしてたはずです。(笑)

目に見えないことを信じることと
現実世界のお金とは、どこか相容れないと思ってしまいますよね。

僕もずっと悩んでいました。

聖書にはこんな聖句があります。

“金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。

財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。”伝道者の書 5章10~11節

“私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。”テモテへの手紙 第一 6章7~10節

“そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

それから人々にたとえを話された。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。

『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。

『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

それから弟子たちに言われた。

「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。”ルカの福音書 12章15~22節

聖書で書かれているのは

”金銭を愛することはあらゆる悪の根”

というものです。

これはお金自体が悪いのではなく、
お金を愛する心が悪だと言っています。

お金を拝み、お金のために生きることです。

そして、お金を握らないこと。

人間の性質はあればあるだけ
損しないようにと蓄えようとします。

本来はツールであるお金が
目的に変わり握りしめてしまうのです。

お金の奴隷になり
お金によって支配されることは破滅への道です。

「そんなこと言ってもお金が無かったら生きていかれへんで」

この言葉の真意はどこから来ているのかが
とても重要だと思います。

本当にそうなのでしょうか?

お金があることで選択肢も
できることも増えるのは確かです。

しかし、その発言の真意はどこから来ているのでしょうか?

僕がこれを言っていたときの真意は

「お金が無かったらダサいやん」

「家族に変なこと始めたと思われるやん」

結局、自分の保身のためなんですよね。

信じることができない証拠です。

まとめ

この記事のテーマは

自分が幸せになることが先か
それとも人に与えることが先か

というものでした。

この回答は

①自分が幸せに”なる”ことが先ではなく、自分が既に幸せで”ある”ことに”気付く”こと。

②幸せに氣づいたら、勝手に与えたくなる。

③与えることが人生の”スタート”ということ。

幸せとは”行為”によるものではなく”気付く”ことです。

そして、幸せと成功を混合しないこと。

あなたは既に幸せです。

自分自身で勝手に欠乏感を作り出しているだけです。

幸せになるために
自己投資をする必要はありません。

努力する必要もありません。

行動できない、一歩踏み出せないのも
幸せであることに”気づいて”いないだけです。

数えてみてください。

与えられている恵みと
祝福に気づいてください。

あなたは幸せです。豊かです。裕福です。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

あなたが関わるすべての人に
豊かさと祝福がありますように。