長年患った”やりたいことがわからない病”を克服した話
Pocket

学とは答えのない問いを追求する学問。

例えば、目の前にあるコップ。

これは何の目的のために作られたのか?

Aさんは言う
「これは水を飲むためだよ!」

Bさんは言う
「これはモノを入れるためだよ!」

Cさんは言う
「これは飾りのためだよ!」

目の前のコップの目的を議論する。

「あ〜でもない、こ〜でもない」

誰も答えを持っていない。
どこまで言っても「推測」でしかない。

これが哲学である。
答えのないことを永遠に考える。

しかし、このコップの目的を知りたければ
コップを作った作者に聞くのが一番早い。

作者に聞いた。

A,B,Cさん
「なぜ、このコップを作ったのですか?」

作者
「作りたかったから。」

以上、終わり。

哲学で議論する時間の無駄である。

作者に聞けば以上終わりなのだ。

さて、
「私たちはなぜ生きるのか?」

たった100年足らずの人生で
死ぬために何をしろというのか?

そんなことを考えていたら
友達には「病んでるの?」と言われるよ。笑

でも、霊的な人間として
その問いは正しいとおもう。

でも、僕たちは無知だから
答えをどこかに探しに行く。

自己啓発に言ったり
スピリチュアルを学んだり
宗教に入ったり
瞑想をしたり、断食をしたり。

「答えらしい」ものを手にしても
残念ながら、違和感しか残らない。

それが現実世界で起こっている迷いの世界。

すべてのものには目的があり
人間が存在するのだからその作者がいるワケで。

その人に聞くのが一番早い。

哲学的に考えなくていいし
宗教に入信する必要もないし
自分の手で神の言葉を聞けばいい。

すべて3500年前から
聖書という書物に神の言葉は残されているのだから。

やりたいことがわからない

「やりたいことがわからない」

このやりたいことを見つけるために
あらゆることに時間とお金を投資する。

やりたいことを見つめれば幸せになれると勘違いしてる。

やりたいことを見つければもっと人生が輝くと思っている。

残念ながらそれはです。

嘘というか
そもそも「やりたいこと」なんて幻想です。

というか、「やりたいこと」を探している時点で
この世にはやりたいことなんて存在しないんです。

哲学者 パスカルは言った

「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない。」

実は、あなたは
やりたいことを見つけたいのではなし
好きなことをしたいのでもないし
幸せになりたいのでもない。

何をやっても埋まらない、この心の穴を埋めたいだけなのです。

昔は何かに夢中になって
努力して成し遂げた達成感で埋まった。

淡い恋をして
恋人とセックスすることによって埋まった。

また、お金を稼いで
旅行に行って、インスタにアップすれば埋まった。

しかし、その埋まったと感じていたのは幻想だったことに気がつく。

また、何かでこの心の穴を埋めなければ
すぐに乾き、新たな刺激を求めるのです。

時間が経てば、飢え、乾くのです。

現実世界にあるもので埋めても結局、飢え、乾く。

何とかしてこの穴を埋めるために
自己啓発やスピリチュアルに手を出す。

ワークなどあらゆることをして新たな発見に心が躍る。

しかし、それも単なる刺激の一部に過ぎなくて。

スピリチュアルにハマればハマるほど
自分の欲が増していることに気付く。

引き寄せの法則を使って上手くいって。

気づけば、また引き寄せようと貪欲になっている自分。

ネガティブ思考に陥れば
ポジティブに変換しようと努力する。

しかし、そんな自分に苛立つ。

心を落ち着かせるため
自分らしくあるために始めたスピリチュアルが
ドンドンと自分を悪魔のようにしていく。

挙句の果てには
目に見えない世界を使って商売をする。

そして、現世ご利益を望む
信者がドンドンと自分の元へと集まってくる。

しかし、現世ご利益がなくなれば去っていく。

埋まると思っていた心の穴はドンドンと広がっていく。

そして、また別のセミナー
また別の能力、また別の師匠を探す。

結局、現実世界とやっていることは変わらない。

無欲になれば楽になれる

次は、無欲になろうと
仏教や瞑想、ヨガによる悟りを目指す。

しかし、頭で悟りの状態になったら
生きている意味がないのではないかとも思う。

しかし、自分はもっと清くなりたいから
そんなことをし始める。

しかし、残念ながらそこにも真理は無い。

そもそも、インド哲学、仏教が目指している悟りの先にあるものは虚無である。

悟りは輪廻転生の輪から抜け出す行為。

この現実から解脱することが目的。

いわゆる宇宙と一体とか
ワンネスに還るとかそんなもの。

もちろん、悟っている人もいるでしょうけど
残念ながら「虚無」なんです。

虚しいんです。

欲が無くなるから虚しいのではなく
そこに真理が無いから虚しいんです。

悟っても現実を生きないといけないし
何ら現実は変わらないのです。

スピの世界と聖書の世界

この世は聖書か聖書以外かの世界です。

今、僕たちが手にできるものは
だいたい聖書以外のグノーシス主義というところから来ています。

いわゆる
神から目を背け、自分自身が神になろうとする運動です。

自分に力をつけて
自分が努力をして
自己啓発や成功哲学ですね。

聖書以外の理念は「幸せの追求」です。

「何が悪いの?」と思いますよね。

僕もずっと思っていましたが…

どうでしょう?

あなたは幸せを追求した挙げ句
心はどうなりましたか?

ますます貪欲になって貪る心が出てきて、
どんなことをしても自分が幸せになろと努力しているわけです。

聖書の理念は「清く生きる」です。

純粋な心で神を敬い、与えられたことに感謝して

清く生きるのです。
隣人を愛し、自分を愛し、神を愛するのです。

自己中ではなく
神が軸になって、すべてを与えられているのです。

清く生きるからこそ幸せになるのです。

どうでしょう?

スピリチュアルで清い人は余り見たことはありません。

昔の僕のように「人々を救いたい!」といいながら
目の前のお金に貪欲なのです。

「もっとみんなを幸せにしたい!」といいながら
自分の生活がどうすれば豊かになるかを考えているのです。

まだスピリチュアルを続けますか?

”自己中心”から”神中心”へ

僕たちは霊的な存在です。

たった100年足らずの人生で
終わってしまうのはオカシイです。

また輪廻転生を説いて
「来世がまたあるから!」は巧妙なです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」ヘブル人への手紙9:27

本当に輪廻転生はあるのでしょうか?

人間にとってはそっちの方がありがたいですが。

「 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」ヨハネの福音書12:25

肉的な人生を好み、自分の命を愛するものは失います。
しかし、肉的な欲求ではなく霊的な真理を目を開くなら永遠の命に至ります。

要するに、

自分の人生を自己中心的に自分がやりたいように、好きな時に好きなことをして生きるなら霊的な命を失い、

自分自身を捨て、神を中心に起き、神が主権になる人生、100%の神に対する信仰と神に対する従順をするなら、あなたは永遠に生きるということです。

「いやいや、これも悟りと同じやん」

「自分を捨てるって欲が無くなって楽しみが無くなる」

このように言われるのですが…違います。

仏教やスピが説く教えは

「この世はあなた次第」

「この世にはなにもない」

「この世は幻想」です。

この教えのもとでは
そりゃ、虚無になりますよ。

聖書が説くのは

「あなたは神に愛されている」

「あなたには目的と役割がある」

「あなたは神が作った最高傑作である」

わかりますか?

スピとの大きな違いを。

あなたには役割があるのです。目的があるのです。

しかし、あなたは自分でそれを見つけたいし
自分でやりたいと思っているのです。

神はあなたの自由意志を尊重しますから
「あ〜、自分でやりたかったらやりなさい」なんです。

神はずっと
あなたを良くしたい!輝かせたい!とずっと思っているんです。

でもあなたは神を信じないし無視なんです。

違うんです。

神に今までの罪を告白し関係を取り戻すんです。
じゃあ、時が来た時に役割を与えてくれるんです。

あなたを作った神が
あなたのことを一番わかっているんです。

何がしたくて何が好きで
どんな人生を歩むことが喜びなのか
人間が神になってはいけません。

主権は人間にはないのです。

自分が主権だと虚しいのです。

まとめ

「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない。」

どれだけやりたいことを探しを続けても
心が満たされることはありません。

本当に心が満たされないなら
永遠の平安と何が起きても揺るがない安心感がほしいなら
自己中心の生活を放棄する必要があります。

すべてを手放しすべてを委ねるのです。

お金も無くなるでしょうし
仕事もなくなるでしょう
友達からも変に思われるでしょう。

しかし、あなたが選択するのはただひとつです。

人からの栄誉を愛しますか?

それとも

神からの栄誉を愛しますか?

人からだけに愛されるものは
現実世界で多くのものを得ます。

神から愛されるものは
迫害に遭い、苦しい人生を歩みます。

あなたはどちらを選択しますか?

信仰とは喜びそのものです。

喜んで自分の命を捧げることができます。

もし、そこに喜びがないのなら
何をやっても満たされないなら
そこに真理はないのです。

霊的な目を開けてください。

神はずっと手を広げ
あなたのことをずっと待っています。