”自信が無い自分”で生まれてきてよかったと思えた日
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なたがもし
成功を望むならたったひとつだけ必要なことがあります。

信を持ちましょう!」

この言葉はどんな自己啓発や成功哲学を手にとっても
目の中にビシッ!!と飛び込んでくる一言です。

地上世界で何かを成し遂げるためには
「自己肯定感」や「自信」は大切です。

しかし、人間は自信を持って言っていたことも
いざとなった時に選択できない生き物なのだと感じました。

決断や選択は大きな分かれ道です。

ずっと、

選択を間違わない!

決断できる!と思って自信を持っていても

実際にその立場になった時にできないのかも知れません。

あなたは絶対に
選択や決断を決めたようにすることができますか?

わたしはあなたのために命を捨てます

イエスには12人の弟子がいました。

12人のうちの一人がイエスを裏切り
パリサイ人に銀貨30デナリでイエスを売り払います。

この裏切りにより
イエスは十字架に架かることになったのです。

イエスは死ぬことは始めから知っていたため
弟子たちに最後の話をし始めます。

イエスは弟子たちに
「わたしが行くところへは、あなた方は来ることができない」
と言いました。

イエスは霊的な側面からこの話をしています。

これに対して弟子のペテロは言いました。

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」

イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」ヨハネの福音書12:36

ペテロは続けて

ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」ヨハネの福音書12:37

イエスは霊的世界のことを話していました。
ペテロは現実世界のことを話していました。

イエスはこの後
すぐに十字架に架かって死を迎えます。

ペテロはイエスが十字架に架かって死ぬなんて知りません。

しかし、ペテロはイエスのことを愛しているから
イエスのためなら命を捨てるといいました。

恐らく、ここに嘘はなかったでしょう。

心から愛していた師匠のために命を捧げるつもりで
3年半衣食住を共にしていたはずです。

しかし、結果は思っていたようにはなりませんでした。

イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ヨハネの福音書12:38

イエスはペテロが三回
「わたしのことを知らないと言う」と言ったのです。

人間の内にある”弱さ”

時が満ち、
弟子のユダがイエスを裏切りました。

イエスは捉えられ罪がないまま十字架に掛けられるのです。

連行される後ろをペテロともうひとりが追っていきます。

シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。

しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。

すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。ヨハネの福音書18:15-17

イメージしてくださいね。

師匠イエスが突然100人の兵士に連れられ
議会に連行されているのです。

弟子たちをかばったイエスのみが連行され
弟子たちは逃げていったのです。

その中でペテロともうひとりが
あとから付いてきて、敵が沢山いる議会に侵入しているところです。

あなたならどうでしょうか?

愛する人が連行されて
そこに見張る門番の人にバレそうになっているのです。

捕まれば自分の命が危ないのです。

そして続きます。

寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。ヨハネの福音書18:18

一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。ヨハネの福音書18:25

敵の敷地内に侵入して
バレないようにしれ〜っと焚き火のところで
敵の中に混じっていたところです。

イメージしてください。

自分をやりそうですよね。
「バレないように、バレないように」と。笑

でも、そこにいた人に言われるのです。

「お前も捕まったやつの一員ではないか!?」

あなたなら何て言いますか?

続けて

大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親戚に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」

それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐに鶏が鳴いた。ヨハネの福音書18:26-27

イエスの預言通り
ペテロは「わたしは知らない」と三度否定し
その場から逃げていったのです。

「師匠のためなら命を捨てます!」

と言っていたにも関わらず
本当の決断を迫られた時に、人間は選択できないのです。

無知の罪

ここから僕たちが学ぶべき教訓は何でしょうか?

「神さまのために生きる」
「子供のためなら命を捨てる」
「お前のためならすべてを捨てる」

口で言うのはカンタンです。

もちろん、思っているからこそ
言葉となってその人に伝えるのでしょう。

しかし、いざ、本当にその場面になった時に
その選択ってできるのでしょうか?

自分には自信があって
自己肯定感が高くて
自分は大丈夫っていうのは
一瞬の判断を狂わしてしまうのではないでしょうか?

もちろん、自信があるからこそ選択できますが
それが驕り高ぶりに変わることには注意が必要です。

自分自身に当てはめて見た時に
とても考えさせられました。

心でもそうは思っていたのですが
これを見た時に、自分の命が本当に危なくなった時に
そのような選択をすることができるのか?

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、ヘブル人への手紙9:27

聖書では人間は一度死ぬことと
死後、裁きにあうことが定められていると書かれています。

スピリチュアルどっぷりだった僕は
輪廻転生を信じていました。

また、裁きとは自分にとっては不都合だったので
人間は「自分が思ったところに行く」を解釈していました。

人間は自分の受け入れたいことを自己都合で選択する生き物です。

また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。ヨハネの黙示録13:16-17

時は終わりの時代です。

知っているにしても知らないにしても時代はそのようの流れています。
目を伏せて知らないふりをすることは健全ではありません。

コロナが全世界に猛威を奮いました。

人々に植え付けられた恐怖は増幅する一方です。

全世界を上げてワクチン開発を進めています。

さて、時代の流れはキャッシュレスです。
手の甲にマイクロチップを埋めている人もいます。

これがあれば
お金がなくても決済ができるようになっています。

ワクチンの真偽はわかりませんが
今、体内情報をすべてチップで管理するものができていると言われています。

さて、ヨハネの黙示録では
”すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。”
と言います。

そして、
”その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”

獣の刻印を打たなければ売りも買いもできなくなると言います。

さて、あなたはこの知識を得てワクチンを打つでしょうか?

ワクチンが獣の刻印かはわかりません。

しかし、売りも買いもできなくなるのであれば獣の刻印でしょう。

さて、あなたが無知な故に愛する友や愛する子供が
何の疑いもなく、ワクチンを打ちます。

無知は罪です。

ということを知っていても
聖書を勉強し、これからの未来がどのようになっていくのかがわかっていても”その時”に自分はその選択ができるのだろうか?

周りの人がドンドンとワクチンを打ち
自分だけがワクチンを打たない
村八分にされ、批判され、罵倒され、殺されそうになった時に、
本当に自分はその”選択”にができるのだろうか。

人を導きたいと言って
本当に善の道へ、光の道へ
人々を導くことができるのだろうか。

今の視点で考えたら「そうする!」と言えるけど
死と直面した時に、自分はどの選択をするのだろうか。

こう考えると
自分という生き物は本当に弱いんだな。とつくづく思う。

自信を持つ!自己肯定感を上げる!ってやってきたけど、
そんなことよりも

自分には力がないこと。
選択する勇気がないこと。
自信がないということ。

これらを心から認めたほうがいい。

なぜなら、
それこそ、大いなる存在を求める第一歩になるから。

不幸は幸いである

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものであるから。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められるから。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされるから。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受けるから。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見るから。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれるから。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものであるから。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いであるから。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。マタイの福音書5:1-12

僕は生まれ持って自信がないことが本当に嫌だった。

人前では緊張するし自分の意見が言えないし、
ハキハキと喋れないし、頼りない自分が本当に嫌だった。

鬱になって現実から逃げたくなる自分が嫌だった。

この聖句を読んだ時、幸いとなんて思えなかった。

でも、今になれば
本当に弱い自分でよかったな〜と思う。

人生に困難がなく
男前でお金持ちで何不自由なく生きていたら
神を求めることなんてなかったはず。

苦しいからこそ辛いからこそ、
自分ではどうすることもできないからこそ
プライドを捨てて人にお願いすることができるんだなぁ、と。

自信があったり
自分で何でもできる人は本当にスゴいと思う。

昔はずっと憧れていたけど。
だけど、すべての人に謙虚でへりくだって
感謝して生きている人に憧れるし
そんな人になりたいな〜って。

自分の権威や能力を誇る人ではなく
すべての称賛や栄誉を天に返す人になりたいな〜って。

もちろん、宗教に入ったり
スピリチュアルにハマっていくのは本末転倒だけど。

そんなことをしなくても
天と自分は個人的な交わりの中で
個人的な関係の中にあるものです。

恐怖で縛り付ける
宗教や信仰は必要ありません。

まとめ

聖書を読めば読むだけ
自分の弱い部分が見えてきます。

今まではスピリチュアル的解釈で自分の都合のいいように
耳障りのいいことだけを受け入れてきました。

聖書とスピリチュアルには大きな違いがあります。

スピリチュアルは
自分“に”スピリチュアル”を”合わせていきます。

自分の都合のいいように
ドンドンと武装していくのがスピリチュアルです。

聖書は
聖書“に”自分“を”合わせる必要があります。

これは自分を捨てることであり
自分が弱いことを認めることであり
自分には罪があることを認めることです。

嫌ですよね。

「ありの〜ままで〜」
生きていきたいですよね。笑

はじまりは自分を認めることです。

自信を付けたり
自己肯定感を付けることも大切ですが

それよりも今の自分を確かに認めることで
しっかりとした道が見えてくるのではないでしょうか。

自分が決断を迫られた時に
正しい選択ができないかも知れないと認めるからこそ
改善し、改め、求めることができます。

信仰とは、すがったり、依存することではありません。

信仰とは究極的な愛の表現であり、信頼です。

努力にすがりつく方が、もっと楽ですよ。

目に見えないものに
完全に委ね、完全に信頼する。

こんな生き方って激渋じゃないですか?笑

祈り

今回も最後まで
読んでいただき心から感謝します。

どうか私たちの頑な(かたくな)な心を耕してください。

自分が法律となり
自分が善悪を判断するこの頑な(かたくな)な心を砕いてください。

そして、自分には力がないことと
自信がないことを認められるように導いてください。

これからは混乱の時代です。

多くの人が、恐怖や不安といった悪の動機から
生きるために右往左往しています。

どうか、私たちに
神の愛と恵みを感じられるようにしてください。

心が平安で揺るがない愛を確信できるようにしてください。

選択や決断が迫られた時に
善の選択、真実の選択をできるように啓示を下ろしてください。

多くの人に恵みと祝福がありますように。