幸せになりたいと願うあなたへ。幸せを求める”凡人”と喜びを感じる”富裕層”
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生は幸せになるために
存在していると思っていませんか?

あなたが生きているのは

今よりももっといい生活をして
今よりももっといい感情を感じて
今よりももっと自由な時間を得て
今よりももっと好きなことをして
今よりももっとやりがいのある仕事をして

今よりももっと…もっと…

もっともっと手に入れたら
幸せになれると思っていませんか?

そして、そうなれば私は幸せになれて
人生がHappyになると思っていませんか?

人生が楽しくない
人生が思うようにいかない
恋人ができない
結婚ができない

このように「ない!」「ない!」という人生を生きている人は一度立ち止まって考えてください。

残念ながら、あなたが求めている幸せは手に入らないし
幸せになるよりもドンドン不幸になっていきます。

幸せな人生を求めても手に入らない。

いや、そもそも
あなたは幸せになるために生きるべきではないし
人生は幸せになるためにあるのではないのです。

そんな話をしていきますね。

“そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」”
マルコの福音書 49

富裕層の脳内

先日、お金持ちと言うよりかは
富裕層の方とお話しさせていただく機会がありました。

「なるほど〜。なるほど〜。」と頭が下がる話ばかりで、
本当に本当に勉強になりました。

結局は、生き方とか哲学とか信仰とかの話になりました。

富裕層とか資産家になると
必ず信じる何かを持っていること。

そして、それは偏りなく
絶妙なバランスを保っていること。

聖書だけでもなく仏教だけでもなく
様々なことを知っているということでした。

ふと、世の中の話になり
こんな質問をされました。

「なぜ、キングダムという漫画が大ヒットするかわかる?」

キングダムとは
秦の始皇帝が天下統一をするお話し。

ヒットの裏には
人間の魂が求めているモノがあると。

「ん〜。。。難しいですねぇ。。。」
「あ、下克上?貧民がのし上がるとか?」

わからん!!笑

おもむろに語られ言葉は

「その先に幸せがあると思っている。と同時に、その先に何もないことを知っている。」

「人間の魂がそれを知っている」

ん??どうゆうこと??

その先には何もにない

キングダムといえば
分裂した国を戦争によって統一していく。

天下統一を果たせば幸せな世界が訪れる。
というものです。

歴史を見れば秦が天下統一を果たしたことがわかります。

では、本当に幸せだったのか?

すべてを手に入れた秦の始皇帝は本当に幸せだったのか?

紀元前221年に史上初めて中国全土を統一しました。

しかし紀元前206年に滅亡したとされています。

結局、たった20年足らずで滅びたのです。

そのために、多くの血を流し
多くの人が死んだわけです。

秦の始皇帝はすべてのものを手に入れました。

お金、地位、名誉、女、娯楽

尽きることのないほどの富を得た。

そして、その次に求めたのは?

「不老不死」

結局、すべてを手に入れても
死を乗り越えることができなかった訳です。

死んで無くなるもののために生きていたということです。

その先に幸せがあると思い
突っ走り突っ走ったあげく
そこにあったのは、欲を満たす富と
乗り越えることのできない「死」でした。

何のためにお金を稼ぐのか?

この教訓は僕たちに何を学ぶべきなのでしょうか?

結婚した先に幸せがある。
恋人が出来た先に幸せがある。
1億円稼いだ先に幸せがある。
人から認められた先に幸せがある。

この「先にある幸せ」のために生きていませんか?

多くは二つのパターンです。

①そもそも先にある幸せに辿り着かない
②手に入れた後に何も無いことを知る

キングダム大ヒットの裏には
僕たちの魂が求めているものがある。

実は、みんな
その先に何もないことを知っている。

しかし、
その先に何もないことを知っていても止まることができない。

そもそも、盲目のままで
必死になっている方が楽なのかもしれない。

しかし、必死の人は必ず死ぬ人。
必死になってはいけない。

その先に何もない。
のなら、僕たちに生きている意味はあるのか?

どれだけ富を得ても
どれだけ多くのものを所有しても
結局は無くなってしまう。

僕たち人間は無くなるもののために生きているのか?

ここが分かれ道だと思う。

それは

①虚無
②喜び

1番印象に残っている言葉がある。

「その先に何もないことは知っている。結局、死んだら何も持っていけないことは知っている。だけど、しっかりとお金は稼ぐ。そして、自分として生きててよかったと思えるようにする。」

これは、僕の中に無かった考え。

どちらかというと
その先に何もないことを知ってしまって
お金を稼ぐ目的と意味を見出せなくなった。

もちろん、資本主義経済の中で生きる人間として
お金は必須アイテムだとは分かっている。

ココがまだまだ僕には足りないところなんだなぁと思った。

と同時に人格者もその先に何もないこと知ってるんだ〜と思った。

そして、それでも力強く社会に適用して生きているんだなぁと。

色々知っていくと2つの分かれ道がある。

①虚無
②喜び

哲学者や突き抜けた人の最期は自殺。

何もないことに生きる意味を見出せなくなり自ら命を絶つ。

これが①虚無の道

もう1つの道は何もないことを知っていながら
この社会で調和しながら生きていく。

なぜ、生きていくのか?

それは、喜びのために生きていく。

HAPPYからPLEASUREへ

人生は幸せになるためにある。
人生はHAPPY(幸せ)になるためにある。

残念ながら、この生き方だと一生かけても幸せになれません。

なぜなら、幸せの裏側には不幸せが存在し、
常に「こうでなければ幸せではない」という
不幸の土台の上で生きているから。

いつまで経っても欠乏感から抜け出せず
「ないない」の人生になっているのです。

人生は幸せになるためにあるのではなく
人生は喜びを感じるためにある。
人生はPLEASURE(喜び)を感じるためにある。

人格者や富裕層は喜びの中に生きている。

決して幸せになるためには生きていない。
そして、何かを得て幸せになるとも思っていない。

「ありがとう」と言われる喜び
人に与えられる喜び
人とつながる喜び
使命を全うにする喜び
神を愛する喜び

常に、喜びの中に生きている。

幸せを求める者は欠乏感を生み出す。
喜びを感じる者は愛を生み出す。

あなたは、喜びの中に生きてるだろうか?

PLEASUREにはHOLLYを

では、どうすれば
喜びある人生を送れるのでしょうか?

また幸せにならないと喜びを感じないと思っていませんか?

PLEASURE(喜び)にはHOLLY(聖さ)が必要です。

人格者、成功者、富裕層は聖い生き方をしています。

それは、人間として当たり前のこと当たり前にしている。

挨拶、礼儀、信仰、感謝。

「人として素晴らしいなぁ」と言われる人が
人格者であり成功者であり富裕層です。

その人たちは
必ず生きる土台を持っています。

自分を超えた存在を持ち生きています。

仏教や神道や聖書やキリスト教や哲学や…

人間として聖く生きるために学ぶのです。

人間として聖くなればなるほど喜びが生まれます。

喜びは愛による現象です。

愛を感じるから喜びを感じ
喜びを感じるから愛を感じるのです。

その愛はどこから来るのか?

自分を超えた存在からきます。

では、自分を超えた存在はどのような人に愛を感じさせるのか。

それは聖く正しく生きている人。

語弊がないようにですが、
聖く生きていなくても神はあなたを愛しています。

しかし、心がひん曲がっていると
愛を感じれないようにできています。

人生を失敗に終わる人は
幸せを追求する人生を生きます。

人生が愛に満ち溢れる人は
聖さを求め、その結果喜びを感じ
その結果、幸せな人生になっています。

順番を間違えてはいけない。
結果を焦ってはいけない。

まとめ

幸せになるために
努力しているあなたへ。

いつまでも
幸せにたどり着くことはありません。

幸せはそもそも認知です。
どう感じるかの問題です。

僕たちは幸せになるために生きているのではなく
喜びを感じるために生きているのです。

喜びは愛から生まれます。

愛は自分を超えた存在から来ます。

聖い生き方、正しい生き方、素直な心な人が
上からの愛を受け取ることができます。

その愛を人に与えることができます。

人があなたに多くの「ありがとう」を返します。

富が増えます。
人脈が増えます。
信頼が増します。

喜びの中で、結果、幸せになっています。

幸せを目指すのではなく
喜びを感じ続けましょう。

そのためには
人間として正しい教養を身に付けましょう。

そのために、生きる土台を作りましょう。

“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
ピリピ人への手紙 44

エピローグ

富裕層の方に質問した。

「なぜ、僕みたいな凡人に会ってくださったのですか?」

そもそも、普通に生きていたら交じり合うことはない。

「いや、いつもブログを読んでいて。で、ここまであらゆる事を勉強して文字にまとめれる人っていないなぁって。宗教とか思想とか書いてる人いてるけど、ここまで分かりやすく書いてる人は他にもいない。どんな考えをしてるのかと思って会いたくなって」

(感動。笑)

「あ、あと、ここまで素晴らしい考えをしてるのに、何で稼げていないんかなぁ〜と思って。大丈夫かなぁ〜と思って。」

(苦笑。)

大器晩成ということでお願いします。

気付いたことは
社会の中でどのような生き方ができるかだけだなぁと。

仏教を信仰してるとか
キリスト教を信仰してるとか
神道を信仰してるとか
聖書を信仰してるとか

そんなことはどうでもよくて

いち人間として社会に生きてる姿がどうなのかだけ。
社会に適応できない信仰は虚しいだけなんだな。と考えさせられました。

“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”
コリント人への手紙 第一 13章13節