なぜ僕たちは争うのか?〜偽善者な自分と向き合った日〜
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なたのために命を捧げます。」

とても素晴らしく響きのいい言葉です。

日本人の精神からすれば
「〜のために」という考え方は
容易に受け入れられ美徳とされます。

しかし、あらゆる争い
(例えば、パートナー、職場、夫婦関係など)
争いの原因は「〜のために」だったりします。

真理を探求してお金も時間もなくなり
にっちもさっちもいかなくなった時聖書と出会いました。

「おったー!!!!!」

探し続けた神という存在が
すべて文字で書き記され霊的に
それは真実であると理解できました。

それからの人生を
「神のために捧げる」と豪語しながら生きてきました。

それは美徳であり、素晴らしいと思っていましたが、
実に偽善者であるかを知らされました。

そんなお話をしていきます。

争いはいつも

夫婦喧嘩が勃発する様子を覗いてみたい。

妻の花子は夫の和夫のために
いつもと変わらず真心込めて夕食を作った。

そんな幸せ溢れる夕食の時間は音を立てて戦場と化す。

花子「ねぇ、この茄子の甘酢和え美味しくない?昨日、通ってる料理教室で学んだの。」

和夫「お、おお。美味しいな」

仕事から帰ってきた和夫は月末ということもあって
契約のアポが重なり疲れ果てていた。

花子は素っ気ない返答にムッとしながらも穏やかに保とうと努力した。

和夫「あ、前言ってたクーラー買い替える話はどうなった?」

花子「え、知らないわよ。あなたがするって言ったでしょ?」

和夫「いや、お前が友人の業者に頼むって言ったじゃないか」

花子「何よ、その言い方!さっきから家に帰ってきて疲れた顔して。私だってあなたのためにご飯作って待ってるのよ」

和夫「いや、俺だってお前のために働いているじゃないか」

あらあら、穏やかではありませんね。

しかし、この会話見たことないですか?
いや、毎日起こってるって?

〜のために

美しく響く「〜のために」

「世のため人のため」

本当に素晴らしい言葉です。

しかし、そんな素晴らしいはずの言葉が
幸せなはずの家庭を崩壊に導くのです。

「お前のためにやってるのに。」

返ってくる返答は

「やってほしいなんて頼んでないよ」と。

これを言っちゃ〜お終いよ〜。笑

あなたも「〜のために」生きていませんか?

両親のため?
お金のため?
将来のため?
子供のため?
彼女のため?
恋人のため?
神様のため?

もちろん、これは素晴らしいです。

しかし、ある問題が浮かび上がります。

それは「〜のために行ったことは報いを求める」ということです。

その根源は
「愛されたい」というものです。

その事実は
「まだ、愛されていない」
「愛が足りない」というところから来ます。

恥ずかしながら僕の体験談を例に挙げます。

人間は「〜のために」となれば力が発揮されます。
(短期的には。)

子供ができた時、恋人ができた時に
見るも無残だった男性が勇者に見えるのはこのためです。

僕は、25歳くらいから
どれだけ稼いでもどれだけ欲を満たしても
終わりがないこの世に落胆を覚えました。

そこから、目に見えない世界へと歩み
スピリチュアルや宗教や彷徨い続けました。

迷いに迷いましたが求めていたのは
自分を超える存在で天とか宇宙とか神とか。

「もしいるなら…」と思いながら必死でした。笑

で、ヒョンな出会いから聖書と出会い
聖書の文字を読んだ時にそれが求めていたものだと確信しました。

「おったー!!!!」
「見つけた!!!!」
と。

そこからというもの
「神のために生きよう」と思い始めました。

で、それなりに
神が喜ぶようなことをやり始めたのですが…

人間はどこまでいっても完全にはなれません。

聖くなりたいと思っても
残念ながらなりきることはできません。
(ある条件を除けば)

どういうことかというと
僕の心の奥底で報いを求めるようになったのです。

「これだけ人のためにやってるんだから」
「これだけ自分の時間を捨ててやっているんだから」

そんな時に自分に問うてみたのです。

「もし、このまま神からの報いを受けられずに神を信じない人が幸せになっていったらどうする。」

「自分よりも不信仰な人が、ドンドン富を得たらどうする?」

「全然OK!」と言えば
頑張っている宗教家ですよね。

残念ながら、それにすらなれませんでした。(笑)

結局、「〜のために」という偽善のお面を被りながら
腹の底では自分が報いを受けたいという思いを持っていた
のです。

いわゆる偽善者なのです。

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」”サムエル記 第一 167

神は望んでいない

スピリチュアルや霊的成長を目指している人の多くは
神の望むことをやろうと励んでいます。

その心は素晴らしいし崇高だと思う。

だけど重々にして
神の望んでいないことをしていることが多いことに気付く。

まず第一に神を遠い存在として認識すること。

これは宗教でありがちな考えで
人間は神に近づくことができないため
儀式や努力、お布施によって近づこうとする。

第二に神は神のために人間が生きて欲しいとして認識すること。

宗教や聖書や霊的探求をしている人がハマりやすいところだと思う。

これは言葉では難しいが少しズレている。

ある興味深い話しを紹介します。

ある家が火事になりました。

命からがら逃げ出した両親と娘とおばあちゃん。

すると、おばあちゃんが
「家にある仏壇が燃えてしまう。神さまが…」

その言葉を聞いた娘が
「ねぇ、おばあちゃん。神さまって自分の命を救うこともできない方なの?」

それを聞いて、おばあちゃんは黙り込んだそうです。

少し考えてみて欲しい。

「神さまのために」という言葉の裏に
「私がしなければ」という思いは無いだろうか?
「私こそが」という思いは無いだろうか?

これこそ、傲慢であり人間の罪である。

神は、人間の助けなんて必要としないし
人間がいなければ存在することができない御方ではない。

ココはすごく重要なことだと思う。

では、神さまとはどんな存在なのか?

神と人間は親子関係

愛する子供が育ってある言葉を放った。

「僕はパパのために生きるよ!」

「僕の人生はママに捧げる。」

その心は嬉しいけど、
「あなたはあなたの人生を生きて」と思いますよね?

親は子に無償の愛を抱きます。

神も同じで人間に無償の愛を抱きます。

親は、自分のために生きる子供をみて喜ぶだろうか?

多くの人は
神が人間を支配したいと思っている。

良識ある親なら
子を支配したいとは思わない。

だからといって
すべてを自由にさせることもない。

ルールを設け
その中で育って欲しいと思う。

なぜなら、その子を愛し

それがその子のためになるから。

そして、何より親が喜ぶことは
親が与えた愛を喜んで受け取った時だ。

親は子を喜ばせたいと思う。

そのために愛を与える。

その時に

「いや、パパ様。恐縮ですが、アタイは受け取るに値する器ではございませんで。お引き取りください」とか

「申し訳ない、ママ様。それはそなたが所有していただきたい。受け取ることは申し訳ない。」とか

どうだろう?

これは実にオカシイ。

これと同じで神は人間に神のために生きて欲しいとは思っておらず
(それも結果として嬉しいかもだけど)
それよりも神からの愛を存分に受け取って欲しいのだと。

まず、ココがないとすべてが歪んでしまう。

神は遠い存在だとか
神は人間を裁こうとしているとか。

そうではなく
まずはじめにあるのは
「愛」ではないでしょうか?

まずは、人間に神からの愛を受け取ることを
望んでいるのではないだろうか?

どのように歩むべきか

「〜のために」が悪いとは思わないし
「世のために人のため」に生きている素晴らしい人も沢山いる。

でも、光り輝いている人は
十分に愛を受け取っている人。

じゃあ、僕たちはどのように歩むべきなのか?

それは「〜のために」ではなく
「〜と共に歩む」です。

「〜のために」生きると報いを求めます。

夫婦喧嘩はココからはじまります。
求めていたものが得られないことに不満を感じるのです。

そうではなく「共に歩む」のです。

神はあなたと共に歩むことを望んでいます。

それは親が子供を肩車して
素晴らしい世界を見せたいように

神もあなたと共に歩み
素晴らしい世界を見せたいワケです。

しかし、人間はそれを拒みます。

自分の力で
自分の努力で
自分の知恵で
自分の脳力で
勝ち取りたいのです。

神は愛ですから
あなたの自由意志を尊重します。

あなたが努力しているときは
ジーッと見守っています。

しかし、あなたがもし
「神と共に歩みたい」と心から望むなら
その瞬間、神はあなたを抱き上げてくださいます。

妻のために生きるのではなく妻とともに生きましょう。

夫のために生きるのではなく夫とともに生きましょう。

神のために生きるのではなく神とともに生きましょう。

“なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。”
ルカの福音書 14章11節

まとめ

神がこの言葉を送ってくださったことに感謝します。

聖書を通して僕自身が受け取ったことがあります。

それは

聖書は「神の愛を受け取って欲しい」と人間に与えられたメッセージ

というものです。

難しく学んでいました。
頑張って愛されるために信仰していました。

しかし、そんな必要はないと
神が語り、神が触れ、教えてくれました。

“「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」”創世記 15章1節

今まで何度も読んでいた言葉です。

聖書に書かれている言葉です。

しかし、この言葉が
まさに自分に語られていること。

頭の理解を超えた部分で
まさに自分に向けられたメッセージであったこと。

これを受け取るために必要なのは
努力でも忍耐でも勉強することでもありませんでした。

素直な心で受け取ること。

疑わず信じて受け取ること。

ただこれだけでした。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」”
ヘブル人への手紙 13章5節

この言葉に「アーメン!」と言えるか。

アーメンとは宗教の言葉ではなく

「その通り!」
「おっしゃる通り!」
「然り!」という意味です。

どうか、ここに呼び集められた人が
神の愛を受け取ることができるように。

そして、この記事を書いた主に栄光があるように。